【中国・大連】かつて多くのロシア人が住んでいたロシア風情街を散策しよう
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- 大連市西崗区勝利橋北
- アクセス:
- 勝利橋バス停下車徒歩3分 中山広場バス停下車徒歩5分
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中国東北部遼東半島の最南端、大連市の都市構造の基本はロシアによって作られました。大連の名前の由来は、ロシア語で「遠方」という意味の「ダーリニー」。100年以上の歴史を持ち、かつて多くのロシア人が住んでいた建物が残っている街並みを歩いてみましょう。
ロシアはウラジオストークが冬になると港が凍ってしまうため、不凍港を確保するために1898年、当時の清朝政府との間で一定の期間、大連を借りて統治する、いわゆる租借するという条約を結びます。小さな漁村だった大連を、パリをモデルにした都市へと発展させるべく開発を進めました。
しかし、1904年、日露戦争が勃発。戦勝国となった日本に租借権が譲渡されました。
翌年、日本軍により、現在の都市名である「大連」に改称されます。
ロシア街だけではなく、70年程前には日本の領土だったこともあり、日本の建物も保存され、そのまま使われています。日本統治時代の路面電車も現役で走っています。
大連市は緯度で見ると日本の仙台と同じくらいですが、冬は寒く、1日中氷点下というのがあたりまえです。しかし、海洋性気候のため雪はめったに降りません。
街の中には露店も多く出ていますが、さすがに冬になると休業してしまう店も多く、街の中は閑散としてしまいます。
帝政ロシア時代の行政区跡地が「ロシア風情街」と呼ばれるエリアです。100年以上の歴史を持つこの地区は、ロシア人によって設計された建築物が立ち並び、当時は多くのロシア人が住んでいました。
その名残からなのか、お店の看板も中国語とロシア語の併記になっています。
大連駅の北側を歩いて15分ほど、全長約500メートルの道は石畳になっていて、1時間ぐらいブラブラと散策するにはちょうどいいエリア。お土産店には、ロシア人形の「マトリョーシカ」を売っている露店もあります。
夜には建物がライトアップされ、地元の人で通りは賑わいます。
通りから1本入っても、ここが中国?と言ってしまいたくなるような建物が並んでいます。ただし、これは後に建てられたもの。
ロシア風情街の入口にある勝利橋を渡ると、真正面に見える大きな建物が大連芸術展覧館(旧東清鉄道汽船会社社屋)。ドイツ風の建物はハーフティンバー様式で、周囲の中国の建物やロシアの建物などと比較しても、存在感があります。
大連芸術展覧館は1902年に東清鉄道汽船の社屋として建てられ、1907年には大連倶楽部、日本橋図書館として利用されました。
大連にはロシア料理店が数店舗しかありませんが、大連芸術展覧館の地下1階にお店があり、ボルシチなどが食べられます。
旧東新鉄道事務所は、ロシア風情街の一番西に立つルネッサンス様式の西洋建築。
1898年に帝政ロシアが大連を占有する権利を得た時に、東清鉄道事務所として建てられ、1902年にダーリニー特別市の市役所となりました。
日本が進出してからは遼東守備軍司令部、関東都督府民生部、満鉄の初代本社、二代目ヤマトホテルと引き継がれていきました。
戦後は、大連自然博物館として利用されていましたが、1998年以降は未使用となっています。
旧満州、というイメージが強い大連ですが、実はロシア人が街を作った、という事を知らなかった方も多いでしょう。「北海の真珠」とも呼ばれる港町、中国の中のロシア、訪ねてみてはいかが?
北海道在住の旅行大好きな30代女子です。
旅行では主に世界遺産や絶景スポット巡りをしています(*^_^*)
もちろん、ご当地グルメもはずせないポイントのひとつ♪
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