- 住所:
- İçeridere Sk. Göreme/Turkey
- 中に入ることはできません。
ギョレメで教会といえば、町の中心から2キロほどの野外博物館の教会群ですが、実は町の中にも教会が残っています。そのほとんどが、人はあまり訪れず、忘れられた存在となっています。
別名、オルタマハッレとかローマの城と呼ばれる奇岩はバス停から歩いて数分の町の中心にあり、夜はライトアップされ、町のシンボルとして知られています。
しかし、損傷がひどく、現在は中へ入ることができません。
外から見ると、奇岩上部が四角くほられ、中には壊れた2本の柱があります。
教会上部の部屋は壁に直接赤い塗料で幾何学模様が描かれています。
教会下部の部屋にはフレスコ画があります。
ギョレメからウチヒサールへ行く坂を上る途中、左側にあります。奇岩に鉄の門がついているので外から分かります。
入口天井には十字架が彫られています。
奥の部屋の床にはたくさんの墓が彫られています。
この墓は、ギョレメ出身の兵士、聖ヒエロンのために作られたと言われています。
ヒエロンは、ローマの墓、野外博物館のトカルキリセや他の教会のフレスコ画にも登場する人物です。
ギョレメのかつての名前マッジャンはヒエロンの母親の名前に由来しているそうです。
バス停から道を渡って、オヤ売り屋台を通り過ぎて公園前を右に入ったAyvaz Efendi通りの最後にあります。100mほどです。突き当りを少し左に入ると見えます。
この教会はベジル(keten otu)から油を作る工場として使われていたため、ベジル(アマ)ハネ(家)と名付けられています。
黄金色のアマ油は灯油ランプに使用されていました。
教会内は工場として使われたため、すすで黒くなっています。
教会にはフレスコ画はなかったと言われていますが、その大きさから注目を集めています。
教会前にはケテンオトゥをつぶすのに使われた石が置いてあります。
工場として使われなくなった後は、近所の人が犠牲祭の時期に、牛を保管したり、切ったりするのに使用されたそうです。
今後教会庭は、フランス在住の土地の持ち主が豪邸を建てる予定だそうで、教会へは横道から通れるようにするそうです。
町の中心から少し離れています。
ギョレメからウチヒサールへ行く道上、ギョレメ役場を通り過ぎて次の道を右に入ります。
教会跡のような、前に柱が置かれた奇岩のある道の方へ左に入ります。
しばらく道なりに、田舎道に入って二手に分かれたら、右に入ります。すぐ左に見える大岩が教会です。
少し高い場所にドアの形の穴が開いています。
以前はハシゴが設置されていたようですが、現在はないので、ハシゴを持参した方が上りやすいです。
教会の入口や奥の部屋には墓があります。入口の墓を踏まないと中に入れません。
天井に十字架と生命の木のモチーフがあります。
アプスの壁にも十字架があります。
3世紀にシリアで殉教したと言われている聖セルギオスと聖バッコスの墓かもしれないとのことです。
いかがでしたか?
ギョレメ滞在中に、ちょっとした空き時間があれば、是非訪れてみてください。
どれも、なぜ、忘れられているのか不思議な印象深い教会です。
トルコのカッパドキアで7人の子供たちと生活しています。
ギョレメで教会といえば、町の中心から2キロほどの野外博物館の教会群ですが、実は町の中にも教会が残っています。そのほとんどが、人はあまり訪れず、忘れられた存在となっています。
トルコの田舎へ行くと現在でも麦からブルグル(挽き割り小麦)を作る人たちがいます。ギョレメでも、20年ほど前までは、どの家庭も麦を栽培して、ブルグルや小麦粉を作っていました。ブルグルは村の食卓に毎日のように登場する食材ですが、作る作業は大仕事で村のみんなで協力して行いました。
ギョレメにはたくさんの教会跡がありますが、隠れ教会と呼ばれ見つけるのすら困難な教会があります。 教会がある丘の上まで登ったものの、見つけられずに戻ってくる人がほとんどです。 上からの景色がいいので、教会を見つけられなくても損はありませんが、せっかくなので見つけて帰りましょう。
ギョレメにはたくさんの教会跡がありますが、隠れ教会と呼ばれ見つけるのすら困難な教会があります。 教会がある丘の上まで登ったものの、見つけられずに戻ってくる人がほとんどです。 上からの景色がいいので、教会を見つけられなくても損はありませんが、せっかくなので見つけて帰りましょう。
ギョレメの町からギョレメ野外博物館へ行く途中、右側にエル・ナザル教会(El Nazar kilisesi)の看板があります。 右に入って800mほどのところにエル・ナザル教会はあります。 途中看板に従って左上へ上ってください。
トルコの田舎へ行くと現在でも麦からブルグル(挽き割り小麦)を作る人たちがいます。ギョレメでも、20年ほど前までは、どの家庭も麦を栽培して、ブルグルや小麦粉を作っていました。ブルグルは村の食卓に毎日のように登場する食材ですが、作る作業は大仕事で村のみんなで協力して行いました。