アメリカで初登録されたジャックダニエル蒸留所!だけど試飲禁止ってホント?!

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アメリカで一番最初に蒸留所として登録されたジャックダニエル蒸留所。創業者のジャックは、10代にして蒸留所の経営をすることになりました。ジャックのこだわりが今も引き継がれている蒸留所では見学ツアーを行っています。でも、この手のツアーにつきものの試飲はありません。なぜでしょう?

アメリカ・テネシー州

12000年前、現在のテネシー州がある場所にはパレオ・インディアンが住んでいて、その後種族は変わっていくものの、先住民族が暮らしていることに変わりはありませんでした。

ヨーロッパ人の遠征が始まったのは、1540年だと記録されていて、その後もたびたびヨーロッパ人が訪れては探検していきました。

このテネシー州の名前は、インディアンの言葉で広場を意味する「Tana-see」がテネシーになったようです。

マスコギー族やユチ族の先住民族は、ヨーロッパ人からの伝染病によって絶滅したと伝えられています。

テネシー州の州都であるナッシュビルは、全米でも有名な教育機関があったり、ヘルスケア産業や音楽が盛んで、比較的住みやすい都市。古き良きアメリカを体験できる都市と評されています。

州都よりも大きな都市であるメンフィスでは、昔から綿花の栽培が行われていました。

ミシシッピ川を挟んで盛んであり、東側のテネシー州、アラバマ州、西側のアーカンソー州、ルイジアナ州、ミシシッピ州で、メンフィス綿を作っています。

メンフィス綿は、肌触りはザラザラとした感じですが、強度の高いしっかりしたコットン。それらすべてがメンフィスに集められて、メンフィスの問屋から全米に販売されています。

夏が長くて冬が短いのがテネシー州の特徴。寒い時期は12月から2月くらいですが、暑い時期は5月下旬から10月上旬と長めです。

その夏の時期に咲くのが、州の栽培花であるアヤメ(Iris sanguinea)。
紫、黄色、白、青と、色とりどりのアヤメが咲いて、とても綺麗ですよ。

ジャックダニエルができるまで

ジャック、誕生

ジャックダニエルの創設者である、ジャスパー・ニュートン・ダニエル氏(愛称ジャック)の誕生日については、1846年とも1850年とも記載されています。

それはこの頃の庁舎では、どこの州、郡でも火事がよく起こっていて、それによって記録が焼失してしまうことが多々あったからです。

ジャックの記録も火事によって焼失してしまったようです。家族が知らないわけはないのですが、疎遠だったためジャックの言い分だけが残っています。

ジャックはダニエル家の10番目の末っ子で、母親はジャックを産んで数カ月後に他界しています。

母親の亡くなった月日は諸説あるのですが、年は1847年に間違いないようですので、ジャックが生まれたのは、1846年ということになるでしょう。

その後、後妻がやってきますが折り合いが悪く、6歳にして家出をしたようです。家出先は近所に住む叔父の家でした。

コール家の雑貨店に働きにいく

家出をした1年後には、テネシー州リンカーン郡で、雑貨店を営むコール家(Dan and Mary Jane Call)に働きに行くようになりました。

当時のリンカーン郡は、後にムーア郡として分離したために、現在のリンカーン郡とは違う場所になります。

そして、ややこしいのですが、1872年にムーア郡とリンチバーグ市が統合市郡となり、テネシー州ムーア郡の都庁所在地がリンチバーグになります。

現在テネシー州のルーテル教会は、ヒクソン、メアリービル、メンフィスと3つありますが、3つともダン・コール氏が牧師をしていた場所から離れています。

一番近いのはメンフィスですが、Lord of Life Lutheran Churchは、2010年に建てられた、まだ新しい教会です。

当時のリンカーン郡にあったルーテル教会が廃れてしまったのかもしれませんね。またジャックが働いていたコール家の雑貨店と蒸留所は、現在のジャックダニエル蒸留所の場所ではありません。

ダン・コール氏は近所のルーテル教会で牧師をしていて、妻が雑貨店を営んでいました。

当時は自分たちで蒸留酒を造って雑貨店で販売しても課税対象ではなかったようで、コール家の雑貨店でも、蒸留酒を造って販売していました。

ジャックはこの雑貨店で働いて、読み書き計算を教わったのです。雑貨店での仕事を覚えてしまうと、次は蒸留所の仕事をやり始めました。そして、蒸留酒造りを仕込まれていくのです。

蒸留所を買う

1860年11月の大統領選で、奴隷制反対のエイブラハム・リンカーン氏が当選すると、奴隷の労働力によって産業を維持してきた南部は困りました。

それで1861年初頭にはアメリカ合衆国を脱退して、アメリカ連合国なるものを勝手に作り、分離独立を宣言してしまいます。そして関係はどんどん険悪になっていき、1861年4月には南北戦争が起こりました。

ジャックが、ダン・コール氏から蒸留所を譲り受けたのは、この時代背景があったからです。そうでなければ、13歳の子どもに儲けがあった蒸留所を売り渡すことはしないでしょう。

ルーテル教会の牧師として宗教活動をしていたダン・コール氏と妻のメリーは、厳格なルーテル派キリスト教徒でした。

その二人が蒸留酒を製造販売することに、世間は白い目で見るようになっていき、いたたまれなくなったコール夫妻は、蒸留方法を覚えたジャックに譲りました。

戦争が始まると雑貨店ではお酒を売ることができなくなり、ジャックは行商に出かけたのです。

蒸留所の場所を移す

行商である程度儲けがでるようになると、ジャックは蒸留所の場所を現在のリンチバーグに移します。

この場所に蒸留所を移した決め手は、鉄分を含まない湧水がでる鍾乳洞があったから。

ウイスキーは鉄分に触れると、黒くなったり緑色になったりして取れなくなってしまいます。そのため、どの蒸留所も仕込み水にはこだわっているのです。

ジャックはこの鍾乳洞の水脈を探しましたが、結局わからなかったので、鍾乳洞の周り約1.2kmの土地を購入しました。

アメリカ登録第1号

南北戦争当時、ジャックは未成年だったので、戦争には行かずに済みました。そのかわり、南軍と北軍にそれぞれ「ジャックダニエル」を行商して、利益を得ました。

戦争後は酒税がかけられるだろうと予想して、新政府に蒸留所登録を申請。

1866年、アメリカ合衆国蒸留所登録第1号となったのです。ジャックはこの年を設立年としています。

ジャックダニエル、Old No.7金賞受賞

「Old No.7」は、1904年のセントルイス万国博覧会に出品されました。そこで金賞を受賞したのです。

その後もベルギー、イギリス、オランダの博覧会で金賞を受賞して、世界で認められた最高のウイスキーとなりました。

ジャックの晩年

7歳から働き詰めだったジャックは、健康を害して蒸留所を率いていくことが難しくなり、1907年に甥のレム・モトロー氏に蒸留所の経営を任せました。

亡くなった経緯については、金庫を開けようとして暗証番号がわからず、蹴り開けようとしたところ足を怪我して感染し、敗血症でこの世を去った説が有力ですが、そんなことはないとの説もあり、定かではありません。

しかし、ジャックは一度決めたことは曲げない性格であり、また経営はやり手だったが、暗証番号などの数字はすぐに忘れてしまい、いつも悪戦苦闘していたこと。足の怪我もジャックダニエルウイスキーをかけて消毒していたなど、本当か?と思われるエピソードが残っています。

1911年10月9日、ジャックは永眠しました。

ジャックダニエル蒸留所ビジターセンター

ビジターセンターは、1999年に完成しました。ツアーだけなら予約は必要なく、直に行って受付で申し込むと、番号が書かれたチケットを渡されます。

先着順での案内になります。広い蒸留所内を歩いて回りますので、歩きやすい靴がいいでしょう。

試飲はありません。なぜならば、蒸留所のあるムーア郡は禁酒法が制定されている郡だからです。

特別に観光客用に少量の販売はされているようですが、開けていない瓶のアルコールを持ち込むことは郡では禁止なので、ここで購入する方は少ないですよ。

許可されているものと、持ち込み不可のもの

許可されているもの
・年齢制限はない
・歩きやすい靴を履いてください
・盲導犬
・写真撮影
・小さなハンドバックや小さなカメラケース
・ベビーキャリア

持ち込み不可
・バックパック
・大きなカメラケースまたはトートバック
・ショッピングバック、大きなバック
・ペット
・煙草(全部禁煙)
・武器などの危険物
・ベビーカー

メープルシロップが採れるサトウカエデの樹木を、このように積み上げて炭にします。

炭にする木は硬いものがよく、サトウカエデの樹木は堅牢性が高いことで知られ、主に家具などに利用されています。

木を焼いて炭にすると、木の細胞に含まれている水分やその他の成分が取り除かれて、炭素だけが残ります。この炭素の目の細かいフィルターが、濾過の際に臭いも吸着してくれるというわけです。

しかし、やがてはこのフィルターも目詰まりを起こします。(私たちの目では分かりません。)ですから、ジャックダニエルではサトウカエデの炭を最長6カ月ごとに取り替えています。

湧水のでる洞窟の前には、ジャックの銅像が立っています。ジャックは身長150cmの小柄な男性でしたが、膝まである黒いフロックコートの正装姿で終生いたそうです。

21歳の頃、この服装にしようと決めたあとはずっとそれを守り続けました。これもジャックの性格が表されたエピソードですよね。

この湧水の水温は13度と常に一定していて、毎分800ガロン(3028.33L)もの水が流れているので、水の心配をすることなく、ウイスキーを仕込むことができます。

ウイスキーを熟成させる樽は、すべて自社で作った新樽だけを使用しています。ホワイトオークの選別から樽の内側を焼くことまで、すべて自社で行っているのです。

それはリンチバーグの雇用問題と深く関わっています。街を愛していたジャックは、多額の税金を納め、社会還元も行ってきました。

ウイスキーにおいて樽の使い回しは、新たな熟成や香味成分などをつけるため行われていることですが、ジャックダニエルにおいては樽職人が職を失うとして、新樽を使用しています。

ジャックダニエル蒸留所ビジターセンター(Jack Daniel's Distillery Visitor Center)
住所:
182 Lynchburg Highway,Lynchburg,Tennessee 37352
営業時間:
9:00~16:30
アクセス:
テネシー州ナッシュビルから車で1時間20分
定休日:
土日、感謝祭の日(11月の第4木曜日)、クリスマスイブ、クリスマス、お正月、サンプリングツアーとショップは、独立記念日(7月4日)、レイバー・デー(労働者の日9月第1月曜日)を含む
電話番号:
+1 931 759 6993 (25名以上は電話予約)
料金:
無料、サンプリングツアーは少額の料金があるので、問合わせてください(リンチバーグ郡は禁酒法が制定されていて、おおっぴらに試飲を勧められないので、金額も提示されていない。)

まとめ

ウイスキー造りにも生き方にも、こだわりをもって生き続けたジャックの心が、今も「ジャックダニエル」のウイスキーには引き継がれています。

禁酒運動や禁酒法制定、蒸留所売却など、さまざまなことがありながらも雇用を続け、今に至ることは本当に素晴らしいことです。

炭での濾過(チャコール・メーイング)、湧水の使用、新樽使用と変わらずに続けていることもあれば、新たに挑戦していることもあり、今後も目が離せない蒸留所です。

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